5世紀に高句麗、百済、新羅の3国は強力な王を中心とする統治体制を整え、勢力拡大を図りました。広開土大王の息子、長寿(チャンス)王は427年に平壌に都を移し、百済の首都である漢城(ハンソン)を占領するなど、漢江地域はもちろん、竹嶺([チュンニョン]現在の忠清北道丹陽[タニャン]と慶尚北道栄州[ヨンジュ]一帯)から京畿道南陽面(ナミャンミョン)まで領域を広げました。このように領土を拡大したことで、高句麗は満州と韓半島に広大な帝国を形成し、北東アジアの覇者として君臨するようになりました。
百済は高句麗の侵入によって漢江流域の領土を失うと、475年に熊津([ウンジン]現在の公州)に首都を移しました。その後、国力を強化して失った領土を回復するために努力を続けました。東城(トンソン)王は新羅と同盟を強化し、高句麗に対抗しました。武寧(ムリョン)王は地方統制を強化しながら再興の基盤を整えました。武寧王の息子である聖(ソン)王は首都を泗沘(サビ、現在の扶余)に戻して体制を整備し、新羅と連合して漢江流域を取り戻しました。
新羅は6世紀の初めに智証(チジュン)王が国号を新羅に変えて政治制度を整備し、首都と行政区域を整理しました。智証王は特に512年に于山国(ウサングク)を征服して領土に編入しました。于山国とは、現在の鬱陵島(ウルルンド)とその付属島嶼である独島(トクト)のことです。法興(ポップン)王は律令頒布、公服制定、仏教公認を通じて統治体制を安定させ、金官伽倻を併合して領土を拡張するなど、中央集権国家としての体制を整備しました。真興(チヌン)王は花郎徒を国家組織に改編し、領土を大幅に拡張しました。そして百済から漢江流域を奪い、高霊の大伽倻(テガヤ)を滅亡させて洛東江流域を占有し、東海岸に沿って咸興(ハムフン)平野まで領土を広げました。
中国を統一した隋は100万人を超える兵力を動員して高句麗を侵略しましたが、惨憺たる敗北を喫しました。特に、高句麗の乙支文徳(ウルチムンドク)将軍は、612年に薩水([サルス]現在の清川江[チョンチョンガン])で隋の兵士をほぼ全滅させました。これを薩水大捷(サルステチョプ)と言います。国力が消耗した隋を618年に滅亡させた唐も高句麗を数回侵略しましたが、失敗に終わりました。
高句麗が隋と唐の侵入を防いでいる間、百済は新羅を頻繁に攻撃しました。新羅は高句麗と同盟を試みたものの失敗し、唐と協力して百済を侵攻しました。金庾信(キム・ユシン)が率いる新羅軍は黄山ヶ原(ファンサンボル)で階伯(ケベク)が率いる百済決死隊を撃破し、百済の泗沘城に進出しました。一方、唐の軍隊は錦江(クムガン)河口に侵入しました。新羅と唐の挟み撃ちに遭った百済は660年に降伏しました。
百済を滅亡させた新羅は、唐と連合して北東アジアの最強国家である高句麗を攻撃しました。高句麗は中国の2つの帝国との長い戦争によって国力が低下していたため、668年に滅亡しました。
唐は百済だった土地に熊津都督府(ウンジントドクブ)、高句麗地域には安東都護府(アンドンドホブ)などを置いて直接統治し、新羅の首都である慶州にも鶏林(ケリム)都督府を設置し、韓半島を支配しようと画策しました。新羅はこのような唐に対抗して戦争を繰り広げ、錦江河口の伎伐浦(キボルポ)で唐の水軍を撃破して勢力を完全に征伐し、平壌にいた安東都護府も一掃して、676年に三国を統一しました。
聖徳大王神鐘(統一新羅、8世紀)
01. 現存する最大の鐘で、重さは18.9tに達します。エミレの鐘とも呼ばれます。
02. 右の写真からは新羅の細工技術を垣間見ることができます。